夏山シーズンに入ると、1度の山歩きでのダメージが大きくって回復までにトレーニングをサボる癖がある。
加齢も手伝ってなかなか回復しない。
そもそも気温が上がってロードを走る気にもなれず、ますますサボりに拍車がかかる。
これは悪循環。
そして罪悪感。
北海道に住んでいてコレだから、本州に住めばますます走らなくなるだろう。
まあ、過去に静岡に住んでいた経験上、数か月も暮らせば現地の気候に身体が慣れるものだけど。
で、今日は久しぶりに仕事帰りに7kmくらい走ってみた。
感じたことは「走るって楽しい」だ。
新たな気付きがあった。
タイムとか距離とかの定量的な指標
僕は20代の頃は陸上自衛官だったので、走る目的は「仕事だから」というところからスタートした。
「1500mを5分以内で走る」とか、「キロ3分40秒から入って6kmを〇分で走る」とか、「武装して障害走コースを〇分以内で走る」とか、常にそういった指標の下で走らされた。
教育隊では、二日酔いであっても「間稽古」と称して、朝からみんなで走らされた。
頭痛を抱えながら演習場のボサの中に駆け込み、「オエー」ってやっている同期もいた。
あの頃はまだ若かった。
なので当時、競争としの視点で見れば、全力を出し合うので仲間との張り合いもあるので燃えるものの、レースのような自分との闘いとは異なるし、「気持ちが良い」とか「清々しくて楽しい」といった良い意味での緩い感覚を味わうことはほとんどなかったように思う。
ちなみに20代の頃にフルマラソンに参加しようと思った動機は、42.195kmという数値目標を達成することによって「もっと遠くへ行きたい」「自分の力を試したい」ということがキッカケだった。
で、最近も「山に登りたいからトレーニングの一環として走る」とか、「海外マラソンで完走したいから月間〇km走らないとならない」とか、やはり何らかの目的があって、そのために「消化する」というのが僕にとっての「走る」だった。
そのように脳に刷り込まれているのだろう。
何のために走るか?つまり目的そのものが、走る楽しみを邪魔していると思う
今日は軽く走ってみたのだけど、走り始めから「久しぶりのランだから力を抜いて楽に走ろう」ということをイメージしながら走ってみた。
「〇km走らなければならない」とか「キロ〇分で走り続けなければならない」は一切なしだ。
「明日も朝4時に起きて走らないとダメかな?」などと未来のことも一切考えない。
今やっていることに集中する。
花壇のお花を眺めたり、子どもが自転車に乗っていたりするのを見送ったり。
すると、なぜか走ること自体が楽しく感じてくる。
僕が自衛官だったときのように、職業柄走らないとならない人や、実業団や陸上部の選手などは常に周囲からのプレッシャーがかかる。
それ以上に、自分自身がプレッシャーをかける。
これは僕たちのように趣味で走っている人であっても同様。
次のレースでの自己ベスト更新を目指したり、いつまでに2kg痩せるという目標を立てたり、今月は〇km走るというノルマを課したりすれば、自分自身でプレッシャーを与えていることになる。
そういったプレッシャーから自らを一度解き放ってみると、走ること本来の楽しさが実感できるのかもしれない、と思った。
今日のジョグを通じて感じたこと。
仕事もそうだし、貯蓄や投資なんかもそうだけど、何でも目的が多すぎるんじゃないか?僕たち。
あんまり頑張らないで、「ただその時が楽しければいい」という生き方にもっとシフトしていったほうが、幸福感が得られるんじゃないかと思う。
少々力を抜いて怠けたところで、そうそうダメ人間になんてならないよ、きっと。
少なくとも、走ろうとか山に登ろうなんて思うタイプの人であれば。
日常的にランニングをする人であれば、僅か7kmをキロ6分30秒で走って終了するなんて気持ちが悪いかもしれない。罪悪感を感じる人だっているかも。
クアラルンプールマラソンのゴール直前。カメラが向いているとは言え、みんな楽しそうじゃないか?走るのって、こういう感覚がいいのではないかと思う。
ソウルマラソンなんか、みんな戦闘モードって感じで重々しい雰囲気。楽しそうじゃないよね~。韓国の人ばかりではなく、日本人もレースではきっとこんな感じが多いと思う。
ルアンバパーンのチャリティマラソンだって、みんな最初から歩いて楽しんでいる。楽しく気持ちよく走った結果として、最終的にタイムが縮んだっていうのが理想じゃないかと思う。