昨日書いた藻岩山の記事で「子どもの登山が成功体験の積み重ねになるので良いと思う」と書いたが、それ以外にもいくつか気が付いたことがあった。
僕らはたまに「なぜ辛い思いをして山に登るのですか?」と尋ねられけれど、それはちょっと愚問だと感じる人も少なくないと思う。
それは山歩きをしない人々からの質問であり、山を趣味としている人同士で「なぜ山に登るの?」なんて問いかけはしないだろう。
辛いけれど楽しいから。
でも、昨日の藻岩山で見た何人かの登山者の中には「なぜ、ここに来ようと思ったのですか?」と訊きたくなるような人もいた。
今日はそこを深掘りしたい。
メタボで大汗をかきながら登っている単独の男性
まずはこのタイプの方が意外と多い。
明らかに運動とは無縁の体系で、しかも大汗をかきながら息を切らして登ってくる中年男性がいる。
いや、失礼だが女性にもいる。
表情に笑顔の欠片も見て取れないし、「こんにちは」と言っても返事をするだけの余力を残せていない。
「苦しい」以外の表情が顔にまったく浮かび上がっていない。
だけどソロで登っているので、自分の意志でやっているとか思えない。
大雪山など市街地から離れた山々で見かける登山者は、僕とほぼ同類項。
なので、こういうタイプの人を見かけることはない。
しかし、藻岩山では違った。
思わず立ち止まって訊きたくなった。
「なぜ、そこまで辛い思いをして登っているのですか?」
「なにがきっかけでここに来たのですか?」
「何があなたをここまで掻き立てるのですか?」と。
冒頭で愚問と言ってしまったが、まさに自分が愚問を投げかけようとしている。
でも理由が知りたいのだ。
僕らは自分のペースや運動能力を把握しているのでそこまで追い込まないというか、そもそも追い込めない。
体力的には自分の方が優位であるのは明らかだが、自分のリミットまで追い込んでいると観点では彼らの方が遥かに勝っている。
これって素晴らしくないか?
僕らは自分より高いレベルの人から影響を受けようとする傾向があるが、そうではない人からも学ぶことはたくさんある。
よく聞く話だが、やはり人生、自分以外はみんな師なのだ。
彼らはなぜ山に登ろうと思ったのだろう?
なぜこの週末、1人で来ようと思ったのだろう?
そして実際に行動に移すことができたのだろう?
謎は深まるばかり。
想像力をフルに働かせ、動機や背景を探ってみる。
長きにわたって山歩きを楽しんできたが、こんなことを感じたのは初めてかもしれない。
山歩きの奥深さを感じたのであった。
膝やその他の箇所に痛みを抱えながらも登る人
慈啓会病院への下山時、明らかに膝の痛みを抱えながら下っている女性を見た。
パートナーが先行して付かず離れずの距離で見守っている。
今日、藻岩山に登ったから痛くなったわけではなく、最初から痛みを抱えながら登ってきたと思われる人だ。
彼女にとってリハビリ目的なのかどうかは分からないが、そこまでして登ろうとする意志と気力に心を打たれる。
その先には達成したい大きな目標がきっとあるわけで、それを想像すると「自分なんか口先ばっかりで、自分が引いた限界ラインの中だけで心地よく生きているだけに過ぎない。結局は何も努力していない。」と自らのスケールが小さく見えてしまう。
色々なことを感じ取れる感性と想像力を養う時間に
2つの事例を挙げて感じたことを書いてみたが、同じ場面で遭遇しても何も感じない人だっているはずだ。
反対に、もっといろんなことを感じながら歩いている人もいると思う。
今回は対象が人間だったが、自然に対しても同じ。
僕は森林限界より下の低山を歩いても、似たような樹林帯が続くだけで楽しくないな、と感じてしまう。
でも山菜やキノコに興味があれば、目を皿のようにして歩いているだろうし、昆虫や石に興味がある人だっているだろう。
大切なのは興味が無くても、何かを感じ取る力だ。
そして、感じ取った事象の奥に何があるのかを想像する力。
山歩きをしている時間は長い。
ソロだとおしゃべりする相手もいないので、いろいろなことを考える時間がたくさんある。
体力の向上だけではなく、フィーリングや思考力を養うトレーニングの時間としても、山歩きの時間を活用したい。
何の特徴もない普通の登山道。普段ならただ黙々と歩くわけだが、笹の枯れ方を見て「刈ったあと何日、何か月経ったのだろう?」「何人がどういう機械・器具を使って刈ったのだろう?」と考えてみることで、感性や思考力の向上も期待できる。